日本統治時代(1895年~1945年)、日本人の建築設計技師は台湾の近代化において重要な役割を果たした。彼らは台湾を統治する総督府におかれた土木局や専売局の営繕課の技師として、行政、教育、交通、文化施設を中心に都市計画やインフラ整備を進め、西洋建築様式を取り入れつつ台湾の気候や文化に適応した設計を行った。また、鉄道駅舎や日式住宅(日本家屋)、神社など多様な建築物を手掛け、現地の素材や技法を活用した建築を実現している。
さらに、台湾人技術者への技術移転を通じて、台湾の建築近代化にも貢献した。これらの建築物の多くは現在も台湾の文化財や文化創意産業を支える建築として保存活用されている。この時期の建築活動は、台湾の発展と日本との歴史的関係を示す象徴としても評価されている。
日本統治時代の台湾に派遣された日本人建築家や設計者たちは、エリート建築家として国家的な使命として赴任した人々であった。一方で、国内で活躍の機会が少なかった若手や地方の技術者にとっても、台湾は新たな挑戦やキャリア形成の場として魅力的な選択肢となっていた。
そのようななから5人の日本人技師、野村一郎、森山松之助、近藤十郎、井出薫、梅澤捨次郎と、彼らによる10の建築を、文化創意によるリノベーション後の建築として紹介する。
●野村一郎
1893年帝国大学工科大学造家学科(現東京大学建築学科)卒。台湾民生部土木局第3代営繕課長で、その職を10年間続けた。代表作は、第二代台北駅舎(1901)、第一代台湾銀行(1904)、総督府博物館(1915、現国立台湾博物館本館)など。
●森山松之助
1897年帝国大学工科大学造家学科(現東京大学建築学科)卒。台湾総督府土木課技師として、台湾総督府庁舎の他、重要州庁舎の設計を手がけた。代表作は、台中州庁舎(1913)、北投公共浴場(1913、現北投温泉博物館)、台北州庁舎(1915)、台南州庁舎(1916、現台南文学館)、台湾総督府庁舎(1919)、総督府鉄道部庁舎(1920、現台湾博物館鉄道部園区)など。
●近藤十郎
1904年帝国大学工科大学建築学科卒。台湾民生部土木局の建築技師として、台湾の風土に適応した建築を数多く設計した。代表作は、台北医院(1906-24)、新起街市場(1908、現西門紅楼)、建成尋常小学校(1921、現台北市当代芸術館)など。
●井出薫
1906年帝国大学建築学科卒。総督府官房営繕課長を17年もの長きにわたり務め、台湾建築学会を設立し初代会長にもなった。代表作は、台北帝国大学(1928-31)、台湾教育会館(1931、現二二八国家記念館)、台北公会堂(1936)など。
●梅澤捨次郎
1911年工手学校(現工学院大学)建築学科卒業。土木局営繕課や専売局の技師として、台南の建築や専売局の建築を数多く設計した。代表作は、台南警察局(1931、現台南美術館一館)、林百貨店(1932)、専売局嘉義支局(1936、現嘉義美術館)、松山煙草工場(1937-39、現松山文創園区)など。